昭和40年03月25日 朝の御理解



 真に有難いという心がおかげの母体であるなら、真に有難いというものは、どこから生まれるか、母体であるかと。真に有難しと思う心すぐにみかげの始めと。また私共が願ってやまない心。本当にいつも有難いなぁという心。その有難いという心が、おかげの母体であるという事が分かるですねぇ。おかげを頂く為に真に神様がおかげを、受けてくれよと仰る。真のおかげを頂く為にはどうしても、真に有難いという心を開かなければならないと。
 だからおかげの母体が真に有難いであるならば、ならその有難いという母体が何か。私は思うのに、相すまんという心だと思う。相すまんという心が真に有難いの母体だと。本当に相すまん事だなぁと。相すまんという、神様相すみませんという、その真に相すまぬが、真に有難いの母体になり、真に有難いがおかげの母体になるという事。皆さん意味が分かるでしょうか。相すまんなぁ。本当に私の様な者。私の様な氏子。
 私のような屑の氏子が、にもかかわらず、御神意を伺うという、何一つ御神意に適うような事も出来ない私である、ございますのに神様はかくまでのおかげを下さって相すまん事でございます。有り難うございますという事になるのじゃないでしょうか。それが私は真に有難い心だとこう思う。その真に有難い心がです、そこは期せずして願わずしてです、次のおかげが生み出される所の、母体になるのだという事。
 私今度のここの御造営の事が計画され、そしてそれが着々としてまぁ進められていく大きな神様の、一つの働きの中に、銘々が様々な形になってお使い回しを頂いておる。一昨日から昨日にかけて幹部総代の方。私もう本当にもう本当に、まぁ変な表現ですけれども、それこそ椛目ならではとこう思い、もう適材適所の人達がそれぞれの御用にそれこそ、チンチロ舞する様に昨日はほとんど終日お使い回しを頂いてるですねぇ。
 それもどの問題だって、たやすい問題じゃないその問題にです、おかげを頂いております。本当に、頭からいく人達。本当にこしごしと御用に使うて頂きたいと。それを念願する人達でなからなければ、また出来ない中途半端な腰では出来ない様な事柄ばかりをです、その中に皆さんがお使い回しを頂いておられる。いうなら日頃の信心に物言わせておられるわけなのですねぇ。
 日頃の信心に物言わせる。日頃信心の稽古をさせて頂いておる、神恩報謝の思いがそうした形にあらわ、表される。そこに、いわば日頃の信心が物言うてくるわけですよねぇ。ところがです。それは、例えば、まぁ十名余りの方達であり、ここのほとんどの多く人は、ね。いつどのような御用にお使い回しを頂いてもそれにむせん。ね。それを辞せる事のない。ね。いつでもどうぞ御用に、お使い下さいという、思いこそあれ。
 思いはあるけれど、実際は心で思うておるような具合にいかん。体が言う事を聞かん。思うように事が運ばない。そういう、いわば思いはあるけれども、その御用に立つ事の出来ない、いうなら思いはあって、それがなされないという中天ぶらりの人がです、まぁ、殆んどではないだろうかとこう思う。ね。手を使いたいと思うても、手を後ろ手に縛り上げられておるという人もあろう。
 足を使い、使うて頂きたいと思うても、足が不自由な人もあろう。本当に歯がゆい事だと。この五体さえ言う事聞きゃあ、手も使わせてもらおう。足も使うてもらうのだけれども、それすら出来ない。例えばそんなら、昨日、まぁ、昨日そうした御用にお使い回しを頂いたと言う方達でもです。ね。それで済んだとは思うておられない。本当にね、俺にこういう意味合いにおいての実力があったなら。
 本当にね、こういう時に、自分にもう少し頭があったなら。ね。もう少し度胸があったなら。物があったら、金があったら。こういう時に使わにゃいつ使うか。お使い回しを頂きたいのだけれども、それが出来ないと御用に使い回しを頂いておるでもです、それをやはり実感するのが、実を言うたら事実じゃなかろうかと思う、どうでしょうか。もう自分はこげな御用に付かん。
 もう自分はこれだけでええ。もうこの御用だけでええ。というような、事はなかろうと思う。ね。少し、出しゃばりのようにあるけれども、あのようにも使こうてもらいたい、このようにも使うて頂きたい。もうどのような御用にでもどうぞと。どっこいとそれを受けられる、おかげを頂きたいと思うても、それが、今よままにならん。ね。私は先ず、そこの所が思われ、その所が切実になってこなければ。
 今日私が言おうとする所は分からんのじゃないかとこう思うのです。確かに椛目全体の上にです、何か異様なまでの働きを頂いておるものを感じます、最近。様々な意味において。その中にお互いがあるのです。そこにそれぞれが意欲する所にです、ね。神様が、それなりに、御用にお使い回しを下さる。ね。お使い回しを下さるけれども私共としてはです、それで済んだとは思われんのであり。
 出来るなら、その御用にも、この御用にも、どのような御用にでもお使い回しを頂きたい思いがやむにやまれん程あるんだけれども、手が言う事を聞かんのであり、足が言う事を聞かんのであり、ね。五体が思う様に動かんのであるという所にです、私が、今日言う、相すまん事だなぁという事になってくるんじゃないだろうか。日頃頂いておる信心。その日頃の信心に物言わせるというけれどもです。
 もうこっ、今日こそ只今こそです、椛目の今日的な、有様の中にです、今こそ御用に使うて頂かなければいつ使うて頂くかと。それはやっ、心の中に一杯そういう思いをもっておるのだけれども、それが思うように出来ないと。そこに私はです、相すまん事だなぁという事になっていくのじゃないかとこう思うのです。ね。おかげの母体が真に有難いなら、真に有難いという母体は相すまんという事だと。
 今日は私はこの事を申しておるわけなんです。ね。真に有難い。だから真に有難いというのはね、もう本当に私のような者、いわゆる屑の子の私である、私のような者に対しましてでもです、神様がこういうおかげを下されてあるという事。ね。おかげとの比較というものがです、比重というものがです、信心も出来ませんのに相すまん事でございますという、その相すまん事でございますというそこからです。
 それでも神様がこのようなおかげを下さる。そこに真に有難いというものが、私は湧いてくるじゃないだろうかとこう思う。ね。相すまんというお詫びの中からです、真に有難いものは生まれてくるんだという事。おかげを頂かなければ、真に有難いものが生まれてくるという事ではない。ね。相すまん。どげん考えたっちゃお母さん相すまん事ねと。本当に、お父さんそうですよと。本当にお詫びするより他にないねって。
 そのお詫びするより他に道のない程の私達ですら、それでも神様はこのようなおかげを下さっておるという事は、それでも有難い事ではないかと、例えば夫婦の者が話し合えれるという中に、夫婦の上に私は真に有難いというような心がです、与えられるのじゃないかと。ね。その真に有難いという心におかげがあると。また頂けれる。そこにいよいよ相すまんなぁ。頂いてもよかろうかと。
 そこでどういう事になるかと言うとです、真に有難いという信心が生まれてくるのは、いよいよ、不能時代でなからなければならないという事になるですね。そうでしょうが。自分の思うようにならない。ね。自分の時代にこそ、真に有難いというものは、生まれてくるのだという事が分かるでしょう。ね。物やら形、ね。ご、まぁ、いうなら自分の思う存分の事が出来るようになる、それを有難いおかげ。
 けれども、そういうおかげの頂けれる一つの過程としてですたい。本当に真に有難いという様な事をです、本当に相すまんなぁという時に、いわゆる、ああもしたい、こうもしたいんだけれども、それがなされない時こそ真に有難いというものは、頂けれるという事が分かるでしょう。ね。その意味合いにおいてです、今の椛目のほとんどの方がです、今は、ままにならない形ばかりではなかろうかと私は思うのです。
 だから、今の椛目こそ、一丸となって真に有難いという信心が頂けれる、好機に恵まれているんだという事。為には、ギリギリ自分を本当に分からせてもらい、自分の実態というものをです、堀り探らせて頂いてです、ね。相すまん事だなぁと。本当に相すまん事だなぁ。こういう事では、いよいよ相すまんのだけれども、せめてというような信心が今こそなされる時でなかろうかとこう思う。
 そのせめてと相すまん事だと、その相すまんという心の中からです、そういう相すまん私にでも、神様がこのようなおかげを下さっておるという、おかげの実感がです、私は真に有難いという物を、生みなす所の母体になり、その真に有難いという心を今度は期せずして、おかげを生みなしていく所の母体になる事に、お互いが気付かせて頂く。ね。今の椛目ほど、その真に有難いを求められておると。
 今の椛目ほど、真に相すまぬを求められておるものは、まぁ、無かろうと思います。ね。神様が、それは次の大きなおかげを下さろうとすればする程です、神様は真に相すまんというそれを求めておいでられる。真に有難いというものを求めておられる。そして次におかげを下さろうとすればする程、その思いが大きければ大きい程です、ね。椛目全体の上に相すまん。
 真に有難いというものを、いよいよ、追求していかなければならないという事を感じさせてもらうと。はい。いわゆる教祖の、これで済んだとは思わないという精神。ね。本当言うたら今こそ、今日こそです、日頃頂いておる、信心を発揮する時なのだけれども、その発揮する事がです、自分の思う事ができないという事にです、相すまぬを感じれれる信心を頂きたいと思うですね。
   有難うございました。